「芸術とは新しい美である」と私は定義している。「美とは何か」というのが問題だが、それはひとまず置いておく。「新しい」の方が大きなポイントなのだ。
芸術というと高尚そうだが、娯楽としての芸能との間に価値の差があるとは思わない。どちらも等しく価値ある創造だと思う。どちらも「美」であるが、芸術は新しい、つまり誰も見たことも聞いたこともない類の美であり、娯楽としての芸能は、芸術が切り開いた美を広げていくものだと思う。
誰も見たことがないということは、前もって予想がつかないということだ。レンブラントに集団肖像画を依頼したグループが、とんだ目にあったことは有名だ。依頼したグループとしては全員がかっこよく描かれることを希望するのが当然だが、出来上がってみると、ある人は目立ってかっこよく、ある人は見るからに引き立て役として半端に描かれていた。「夜警」という絵だ。芸術家はいつでも新しい事をするから、周りの人々は期待を裏切られ続けることになる。それで芸術家の晩年はたいてい孤独である。
新しい美に出会うとき、人はビックリするものだ。感動したり癒やされたりはしない。ビックリして動けなくなる。岡本太郎氏の「芸術は爆発だ!」という定義も分かりやすいと思う。人はいきなりの爆発にビックリして「何事だ?」と問うのだ。
私は一時、芸術家を目指していた。周りにもそういう人たちがいた。芸術を目指す、つまりかつて無いものを創造するためには、古い美、つまり伝統を知り尽くしていなければならない。だから必然的にアカデミックな教育を受けることになる。過去を学ばないで作ると、自分では新しいつもりでも、過去の美をつぎはぎした物にしかならない。私は伝統を学び、新しい美の創造を目指した。しかし余りに孤独な道だった。私の初めの動機は「人と感動を分かちあえる音楽を作りたい」だったのに、芸術を目指す限り、そんな事はあり得ないのだ。それがはっきりした時、私は方向を変え、改めて人と分かちあう音楽を目指し始めた。
というわけで私は芸術家ではない。それは卑下ではなくむしろ誇りを持って言えることなのだ。
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