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欲しい物は高く買え

2002年4月12日 

 欲しい物は高く買った方がいいと私は思っている。「必要な物」なら安く買うべきだけれど、「欲しい物」の場合は、安く買うと結果的に損だと思うのだ。例えばパソコンである。新機種が出ると旧機種はガクッと値が下がる。安くなる直前に買って後悔する人は多いかもしれない。けれど私は高いうちに買うことを損だとは思わない。むしろ得ではないかと思う。「値札」というものがあるので、物の価値は客観的に存在するように錯覚してしまうが、実は物の価値は「自分にとって」という基準が正しいのであって、それによれば各人にとっての物の価値は、異なる。もし高くても買ったなら、それは自分にとってそれだけの価値があるということである。安くなるまで待って買ったなら、それは自分にとって安物に過ぎないという事なのだ。

 ところで私が現金で買った一番高い物は、妻への婚約指輪である。全然惜しいと思わなかった。それは妻に対して、何も惜しまないということでもある。

 

 

婚約指輪とは

2002年4月14日 

 婚約指輪に大金を出す時、これは本当に必要な出費なのだろうかと考えた。その時自分なりに考えた、婚約指輪を贈ることの意義を記しておきたい。

 婚約指輪には宝石が付いている。これには「私に万が一の事があり、あなたが路頭に迷いそうになったら、この宝石でとりあえず食いつないでもらいたい」という意味があるのではないかと思う。いざという時は通帳を持ち出せないかもしれない。預金など消滅する事態になるかもしれない。そんな場合でも指輪なら身に付けて簡単に持ち運べるし、宝石ならある程度の価値を保つだろうと思う。

 そしてなぜ指輪なのか。指輪は契約の印だと思う。婚約というのを非常に大きな契約であると私が捉えていることの証として、高価な指輪を贈り、また相手もそれを理解して身につけた。そして半年間、その契約を守ることで互いへの信頼を確かにし、今度は生涯続く結婚という契約を結んだのだ。今どき婚約などする人は少ないかもしれないが、結婚を幸せなものにするために、婚約は非常に有効な制度だと私は思う。

 

 

「愛」の定義

2002年5月3日 

 「愛」の定義は人間の数だけあって良いと思う。私の定義は後で書くとして、まず「定義」について考えてみたい。私は定義が好きなのだ。特に「愛」とか「正義」とかの抽象的な概念を、具体的に定義しようと日々試みている。毎日の些細な選択でも出来るだけ意志によって決断したいので、その基準となり得るように定義する必要があるのだ。定義をすると、似て非なるものの区別が明らかになる。「愛」と「恋」を同じに定義するのも悪いわけではないが、せっかく異なる単語になっているのだから、自分なりの定義をして使い分ければ、曖昧だった概念を整理するのに役立つと思うのだ。というわけで私にとって「愛」とは何か、書いてみよう。

 「愛とは相手のために時間を使う意志だ」という定義を私は愛用している。特に独創的であるわけではない。多くの人がこう定義しているだろう。それだけ有用なのだと思う。この定義の最大のポイントは、愛を意志としているところだ。感情ではない。極端な話、この定義によれば、嫌いな人でも愛することができる。それからこの定義が便利なのは、愛を「時間」という客観的な量として計れる点だ。誰を一番愛しているか、それは誰に一番、多くの時間を割いているかで分かる。私は自分に愛が足りないと思うとき、愛すべき対象に時間を使おうと意志で努力してみる。そして多くの場合、良い結果を得ることができた。

 愛についての聖書の言葉がある。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネの福音書15:13)ここで「いのちを捨てる」というのは文字通りの意味だと思うが、それなら生涯に1度しかチャンスが無い。これを毎日の生活で実行できる指標として解釈できないだろうかと考えた。もしあと半年の命と告げられたら、命とは「残り時間」のことである。その半年をどう使うかが、どう生きるかである。ということは「友のためにいのちを捨てる」というのは、自分が自由に使える「残り時間」についての権利を自主的に放棄して、友のために使うということではないか。というわけで「愛とは相手のために時間を使う意志だ」と定義してみたのだ。

 おととい仕事が終わって「これから帰る」と妻に電話したら、「大丈夫だからゆっくり帰ってきてね」と言ってくれた。何でもないような一言だが、私は涙が出るほど嬉しかった。1歳の男の子を育てるのは、ひどく疲れる。妻は身体が弱いので、私が仕事で出ている間、かなり消耗しているはずなのだ。だから「早く帰って手伝って」と言われてもおかしくない。妻が並々ならぬ努力をしてくれて初めて、私はゆっくりできるのだ。妻が自分の時間を自分の意志で、私のために使ってくれている、それが他でもない、愛だと思う。愛とは何か、毎日考え続けているからこそ、日常のさりげない会話の中にも、かけがえのない宝を見いだすことができると思った。

 

 

親切とは

2002年5月10日 

 「親切は反射だ!」と私は時々気合いを入れている。反射とは脳を通さない反応だ。熱い物に触ってしまった時など、脳を経由している間にもダメージを受けてしまうような場合に、脊髄(でしたっけ?)で速やかに身体を動かすのだ。親切にも色々あるが、電車やバスで席を譲るといった単純な親切は、脳など経由しないで瞬発的に動け、と自分に言い聞かせている。普段から気合いを入れていないと、つい考えてしまう。「この人は席を譲られて、かえって傷つかないだろうか?」「となりに座っている人が、自分が譲らなかったことで自己嫌悪に陥らないだろうか?」「私も疲れていて、始発に並んでやっと座ったのだ」などなど。だから「反射だ!」と自分に言い聞かせておいて、少しでも譲るべきと思われる対象が視界に入るや「どうぞ」と立つ。「ひと駅ですから」と言われても「でもよろしければどうぞ」。2度すすめて断られたらあきらめる。ここまでを反射でおこなうのだ。

 きのう電車の中で、少し悲しい光景を見た。駅で止まったとき、おじいさんと孫娘が立って出口に向かった。席には孫娘のかばんが忘れられたように置いてあったので、気づいた若い女性がさっと手に取り、渡しに走った。そしたらおじいさんはムスッと「ここでは降りない」と言ってかばんを受け取り、席に戻ってきた。どうやら路線図を見に席を立ったら、孫娘が勝手についていったということらしい。迷惑のように扱われてしまって、女性は所在なさげだった。こんな目に遭うことがあるから、なかなか親切になれないということもある。しかし聖書にこのような言葉がある。「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。」(レビ記19:32)これは強い命令として書かれている。いじわるな老人は敬わなくて良いとは書いていない。感謝しない老人はほっておいて良いとも書いていない。すべての老人の前で起立し、敬え、という、単純明快な命令だ。もしそうして嫌な目に遭ったとしても、神が報いて下さる、という事だ。

 「小さな親切 大きなお世話」という言葉がある。事実そういうことも多い。でもそれを恐れて皆が係わりあわないようになっていいものだろうか。人が倒れているのを見て救急車を呼んだら、自主映画の撮影だった、という時、大きなお世話と言われてしまうだろう。でも本当に急を要する事態だったら、その判断によって命が救われるかもしれない。ある「親切」な行為が、逆にマイナスをもたらしてしまう場合の度合いは、「迷惑」とかせいぜい「不快」程度だろう。一方その「親切」をしなかったゆえにマイナスになるケースの中には、非常に深刻なものが含まれていると思う。

 私の親は健在であるが、年を重ねて弱ってきた。そんな親に席を譲ってくれる人がいたら、私は心から感謝したい。私の目の前にも、誰かの大切な人が立っているかもしれない。どの人かは判らない。だから「反射」で立ってしまおう、と思う。

 

 

静かなコンピューター

2002年5月10日 

 私が最初に買ったコンピューターは、静かだった。全く音を立てなかった。というのも冷却ファンがついておらず、ハードディスクすら無かったのだ! 音楽に使っていたので、これは有り難かった。ついでにいうと立ち上がりも早く、電源を入れて10秒程度で使えるようになった。良い時代だった。今、私が使っているコンピューターは、冷却ファンと、2台のハードディスクで、常に音を立てている。うるさくはないが、長時間使っていると精神的に消耗する。コンピューターの動作音は無音であるべきだと私は思う。少し前、AppleがG4 Cubeで静かさを実現したのでかなり食指が動いたが、拡張性の無さが致命的であきらめた。新発売のiMacはどうなのだろう。

 機械の動作音がどんなに人を消耗させるか、あまり論じられていないように思う。私は職業柄、音に敏感なので、時々人間の作った音から逃げたくなる。自然の音は良い。癒される。海はうるさいので、山である。しかし日本では山も静かではない。遠くの町の音が渡ってきたり、自動車の音が聞こえたりする。何とか苦労して、完全に自然の音だけに囲まれた時、私には天上の音が聞こえる気がする。木々を渡る風の音の緩急の合間に「妙なる調べ」とでもいうものが漏れ聞こえてくる。それに触れると文字通り心が洗われる。

 田舎に住む気は無いのだが、いつか静かな生活を手に入れたいものだ。まずは静かなコンピューターが欲しい。

 

 

「自由」の定義

2002年5月19日 

 「自由」という言葉は、政府や学校などの体制 vs 個人 という視点で語られることが多いと思う。女性に教育を受けさせない国など、自由を奪う体制は問題だ。けれどもっと身近に、意外な不自由があることを、私は常に意識している。日本というかなり自由な国で、そこそこ豊かに暮らしているにもかかわらず、ともすると自分で自分の首をしめて不自由になってしまうことがある。そこで私の個人的な定義。「自由とは、しないでいられる状態である」

 世の中には酒やタバコをやめたくてもやめられない人が沢山いることだろう。タバコをやめたいと自分自身が思っているにもかかわらず、やめられない場合、私の定義では、タバコに関して不自由だということになる。強い言葉で言い換えるなら、タバコの奴隷だということだ。また、明日までにしなければならない事があるにもかかわらず、どうしてもゲームをしてしまうという場合も同じ。「しない」という選択肢があり、それを選ぶべきだと解っていながらやめられない、これは実は恐ろしく不自由な状態ではないかと私は思うのだ。

 タバコや酒やゲームが悪いとは思わない。賭け事も薬物でさえも「できる」という環境でなければ、自由とはいえない。ただ残念ながら人間は自らを不自由に追い込んでいく存在だから、法律などで禁止しなければ、恐ろしい物の奴隷になってしまう。けれど本当に自由を理解し、それを行使できるなら、法律が禁じようが禁じまいが、真に自分の益になる事を選び取っていけると思う。どんな事でも、するか、しないかという選択肢を並べ、よく考えて自分の意志で選びたい、と私は思っている。

 日常生活で私が最も頻繁に自由を意識するのは、朝起きる時である。あと10分寝ていても別に構わないという時、しかし疲れは取れているし起きた方が充実した時間を過ごせると分かっている時、私は自分が自由である事を確認するために起きてみるのだ。寝続けるという楽な状態を「しないでいられる」か? もし疲れが取れているのに起きられなかったら、怠惰の奴隷ということになる。滑稽なほど他愛のないことではあるが、私は布団の中で真剣に、自由を確認しているのだ。

 

 

赦すということ

2002年5月20日 

 ある事件で母親を殺された息子(40代くらい)がテレビで、どうしたらその事実を乗り越えられると思うか語っていた。とにかく犯人には謝りに来てもらいたい。来ても会わないけれど、それでも何回でも何百回でも謝りに来てもらいたい。そのうちに「もう来なくていいから」と言える日が来るかもしれない。その時、自分にとって、事件は終わるのかもしれない、と。

 このような例ほど重くなくても、人は毎日、誰かに傷つけられながら生きている。しかし傷つけられた時、どうすれば自分が癒されるのか、意外と真正面から考えられないような気がする。仲間に愚痴をこぼしたり、何とか仕返ししてやろうと画策したりと、後ろ向きで一時的なもやもやの解消を考えがちだと思う。

 傷つけられて心に刺さるトゲは何なのか。私は「赦せない心」だと思う。たとえ相手がボコボコになるほど仕返しできたとしても、相手を赦せない限り、いつまでも苦しいと思う。ということは意外にも、解決の鍵を握っているのは、被害者の方であると思うのだ。もし「相手が痛い目にあえば気が済む」とか「相手が心から反省すれば赦せる」とか考えるなら、解決は「相手」次第ということになり、それでは自分に為すすべが無い。しかし「自分が相手を赦せた時、問題は解決する」と考えるなら、「自分」が積極的に解決へ動くことが出来る。

 聖書に出てくる場面。弟子がキリストに尋ねた。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」キリストの答え。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」(マタイの福音書18:21-22より) そんなに赦していたら損するような気がする。けれど「赦す側」の受ける恩恵は、赦される側の何百倍も素晴らしいのだ。

 何百回謝りに来られても「もう来なくていいから」と言ないかも知れない。一方、一度も謝罪が無くても平安な心を取り戻せるかもしれない。心のトゲを抜けるのは、自分だけなのではないだろうか、と私は思う。

 

 

痛みに耐えること

2002年5月28日 

 今週半ば、腎臓結石が尿管に降りてきて痛んだ。この痛みは凄まじく、大のおとなが転げ回ることで有名だ。何とか痛みに耐えて次の日病院に行ったら「よく我慢したねえ。普通、救急車で運ばれて来るんだけどねえ」と言われた。もし生まれて初めてこの痛さに遭ったのだったら救急車を呼んだだろうが、幼い頃からの持病なので、強い痛み止めの薬を常備しているし(それでも効き始めるまでは猛烈に痛いけれど)何より原因を知っているので、命を落とすことはないと分かっており「あと6時間耐えればおさまる」と思えば、何とか耐えられるのだ。

 初めての痛みの場合、どうすれば治るのか、いつ頃治るのか、そもそも治る時が来るのかさえ分からないので、実際以上の辛さを覚えることになる。しかしどんなに辛い痛みでも、1度経験して乗り越えていれば耐えやすい。必ず治ると分かっていれば、何とか耐え忍べる。身体の痛みだけでなく心の痛みについても同じで、辛い事にあった時、それをどのように乗り越えたか覚えておけば、次の時の助けになると思う。

 意識がもうろうとするほどの痛みにあっては、最愛の妻にすら何も期待できない。誰にも助けてもらえない。人間は人間を救えないという事実に直面する。それは「死の疑似体験」と言えると思う。このまま自分が死んでいくかもしれないと思うと、自分が的はずれな物を大事にしてきたことに気づく。もう一度動けるようになったら、もっと命の照準を絞り込んで生きなければと思う。そういう思いを抱けるのは感謝なことだ。この痛みも特権のような気すらする。

 その後の検査で、当分ひどく痛むことは無いと分かった。さて、照準を絞っていくことにしよう。

 

 

「芸術」の定義

2002年5月31日 

 「芸術とは新しい美である」と私は定義している。「美とは何か」というのが問題だが、それはひとまず置いておく。「新しい」の方が大きなポイントなのだ。

 芸術というと高尚そうだが、娯楽としての芸能との間に価値の差があるとは思わない。どちらも等しく価値ある創造だと思う。どちらも「美」であるが、芸術は新しい、つまり誰も見たことも聞いたこともない類の美であり、娯楽としての芸能は、芸術が切り開いた美を広げていくものだと思う。

 誰も見たことがないということは、前もって予想がつかないということだ。レンブラントに集団肖像画を依頼したグループが、とんだ目にあったことは有名だ。依頼したグループとしては全員がかっこよく描かれることを希望するのが当然だが、出来上がってみると、ある人は目立ってかっこよく、ある人は見るからに引き立て役として半端に描かれていた。「夜警」という絵だ。芸術家はいつでも新しい事をするから、周りの人々は期待を裏切られ続けることになる。それで芸術家の晩年はたいてい孤独である。

 新しい美に出会うとき、人はビックリするものだ。感動したり癒やされたりはしない。ビックリして動けなくなる。岡本太郎氏の「芸術は爆発だ!」という定義も分かりやすいと思う。人はいきなりの爆発にビックリして「何事だ?」と問うのだ。

 私は一時、芸術家を目指していた。周りにもそういう人たちがいた。芸術を目指す、つまりかつて無いものを創造するためには、古い美、つまり伝統を知り尽くしていなければならない。だから必然的にアカデミックな教育を受けることになる。過去を学ばないで作ると、自分では新しいつもりでも、過去の美をつぎはぎした物にしかならない。私は伝統を学び、新しい美の創造を目指した。しかし余りに孤独な道だった。私の初めの動機は「人と感動を分かちあえる音楽を作りたい」だったのに、芸術を目指す限り、そんな事はあり得ないのだ。それがはっきりした時、私は方向を変え、改めて人と分かちあう音楽を目指し始めた。

 というわけで私は芸術家ではない。それは卑下ではなくむしろ誇りを持って言えることなのだ。

 

 

男はなぜデパートで疲れるのか

2002年5月31日 

 休日。デパートや遊園地のベンチでは、くたびれた男たちが荷物番をしている。家族につきあっての買い物や行楽に行くと、なぜかすぐに疲れてしまう男たちがいる。私も実はそうなのだ。その理由と解決法を私なりに記してみよう。特に女性に読んでいただきたい。

 多くの男は「主導権」を握りたがる。自分で目標を設定し、自分のペースで働く時、男は疲れることなくいくらでも働ける。だからゲームなどは徹夜でできるし、好きな仕事なら1日12時間くらいぶっつづけでも平気である。けれど目的が定かでないまま他人のペースで動くのは、非常に苦手だ。妻の気ままなウィンドウ・ショッピングについていけず、1時間でベンチにへたりこんでしまう。

 こんな夫(ボーイ・フレンド)にお困りの方は、男に「主導権」を与えてみていただきたい。見せかけでよい。男は馬車馬、女は御者。男に目標を与え、自分のペースで動かしてやると、疲れ知らずの運搬車になると思う。

 たとえば目当ての婦人服売り場がある場合、「どこかなあ」などと言って男に探してもらったり。(本当は知り尽くしていても。)男は案内板を探して調べ、最短の経路で案内するだろう。そしてそうしている間、彼は主導権を握ったつもりになって、元気に歩くのだ。これをもし「こっちよ」と女性の方がグングン先に行き、男にそれを追いかけさせると、ものの数分で男はくたびれる。場所が遊園地なら、乗り物を男に決めさせ、場所を案内させるとよいだろう。

 キリスト教式の結婚式では「妻は夫に従え、夫は妻を愛せよ」という聖書の言葉がよく語られる。夫に従え、という命令にはふかーい意味があると思うからここでは掘り下げないが、たとえ従いたくなどない、しょうもない夫であっても、あえて従ってみると(あるいは従うふりをしてみると)意外にもだんだん、従うに足る夫へと成長してしまうのだ。妻には忍耐が必要だが。

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