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口が堅い人でありたい

2002年9月14日 

 口が堅いと自負している人の中には、驚くほど口の軽い人がいる。信頼して相談したら、多くの人にバラされて困った経験が私にはある。まず「口が堅いと言いながら実は軽い人」の例を挙げてみたい。

 その1、相談者の名前だけは伏せて、あとはしゃべる人。こういう人は、相談者の迷惑や不利益になりさえしなければ、しゃべっても悪くないと考えている。実例。「誰にも言わない」と確約するAさんに、私は個人的な事を相談した。するとしばらくして別の人から「大丈夫?」と心配された。Aさんから聞いたとのこと。さすがに私の名前は出さなかったそうだが、話の内容から私の事だとわかってしまったという。私はがっかりしたが、その後、いいことを思いついた。人々にそれとなく知らせたいことを、Aさんに口止めして伝えるのだ。結果は見事に知れ渡った。これは今でも利用している。

 その2、相談者と接点の無い人には、しゃべる人。相談者のイメージダウンにならなければいいのだからと、全然関係ない人にはしゃべってしまう。実例。口が堅いと公言するBさんが「実はこんな人がいて・・・」と話してくれたのは、私のよく知っているCさんのことだった。しかも私は直接Cさんから相談を受けていたのだ。思わぬ所に接点はあるものだ。これほど直接ではなくても、何人かに伝わっていくうちに、接点のある人に知られることは良くある。

 その3、同じ相談を受けた者同士で、しゃべる人。どうせどちらも知っている事だから、話題にしても構わないと思ってしまう。実例。Dさんは、仲の良いグループの数人に、個別に相談をした。相談をされた同士はすぐにそれを話題にし、Dさんのいない所であれこれ話を始めた。別にDさんはそれを知っても傷つくことは無かったが、私はそのような人たちに相談する気にはならない。

 その4、口の堅い人には、しゃべる人。口の堅い人は他言しないだろうから、しゃべっても構わないと思うらしい。実例。私は口が堅いように見えたらしく「誰にも言わないでね」と前置きされて、Eさんの秘密を打ち明けられたことがあった。確かに私は誰にも言わなかった。けれどそんな事を聞かされて、私のEさんへの見方が少し変わってしまった。それは良くない事だと思う。

 その5、相談者本人には、しゃべる人。これは別に悪くないようにも思われるだろうが、私は避けたいと思う。映画『トータル・フィアーズ』の1シーンで、部下に機密をうち明けた上司が「この話は聞かなかったことにしてくれ」と言うと、部下は「何の話です?」と返していた。打ち明けあった当人同士でも、以後、基本的に話題にはしないという姿勢は大切だと思う。実例。私がFさんに相談したら、その後、顔を合わせるたびにFさんは無言ながらも「私には判っていますよ」という視線を送ってくるようになった。何だか居心地が悪かった。

 以上のような人々は、自分のことを口が堅いと思っているだけに危険だ。そんな中で、わずかではあるが本当に信頼できる口の堅い人にも出会った。Gさんは親身に相談にのってくれ、的確なアドバイスをしてくれたが、その後、こちらから再び話を持ちかけるまでは、私自身に対しても決してその事に触れなかった。顔を合わせても全く以前と変わらないふるまいで、まるで相談したのが夢だったような気にすらなった。けれど不思議とそうされる事が、何よりの励ましになったのだ。相談前後でまったく態度を変えず、なにごとも無かったかのように接してもらえることが、実は何よりの支えになるのだと、私は思った。

 最後に、私の理想が小説に描かれているので紹介しよう。ジェフリー・アーチャー作『ケインとアベル』という本に、とてつもなく口の堅い人が出てくる。あまりの堅さに、賛否両論が起こりそうなほどだ。どうせならそれくらいの極端な口の堅さを目指したい。(ストーリーの面白い所に関わるので、具体的には書かないでおく)。私は「誰にも言わない」と言ったら、本当に文字通り絶対誰にもまったく少しも何も言わない人でありたいと思う。

 

 

また聞きを信じない人でありたい

2002年9月15日 

 正確には「身近な人の評価にかかわる情報については」また聞きを信じないということだ。人は、また聞きに慣れすぎていて、無批判にその情報を信じてしまうことが多い。しかし少し考えれば判るが、また聞きは常に誤りを含んでいる情報なのだ。

 文化人類学の用語に「メッセージ」と「コード」というのがある。ふたりの人がコミュニケーションする場合でいうと、メッセージとは伝えたい内容自体のこと、コードとはその内容を伝える記号のことだ。(厳密な定義ではないけれどご勘弁を)。たとえば待ち合わせをする時。「2002年9月16日午後8時にJR渋谷駅のハチ公の銅像の前で待ち合わせをしよう」というメッセージが、まずあるとする。それを仲の良いAさんに伝える時、たとえばメールでこう打つかもしれない。「あした8時にいつもの所で」。久しぶりに会うBさんに対しては「明日9月16日午後8時、渋谷駅のハチ公前にてお待ちしております」と打つかもしれない。どちらも同じメッセージを伝えるものだが、相手によって選択するコード(言葉)が変わってくるのだ。このコードの選択を誤ると、情報が正しく伝わらない。「あした8時にいつもの所で」というコードが別の人に届けられると「あしたの朝8時に札幌時計台で会いましょう」というメッセージとして伝わる可能性だってあるのだ。

 また聞きで伝わっていくのは、往々にしてコードの方であって、メッセージではない。最初の人が発したコードが正規の対象に受け取られないので、誤ったメッセージを伝える可能性大なのだ。たとえば私が恩師の先生を交えた仲間内で語る時、親しみを込めて「先生って、どうしょうもなく頑固なんですよね、困りますよ」と言ったとする。これを聞いていたCさんはDさんに伝える。「遠山さんが言ってたけど、先生が頑固者なんで困ってるんだって」。この時Cさんの心にあるメッセージは、別に間違ってはいないかもしれない。けれどDさんに伝わった時、一人歩きしたコードが「遠山さん、実は先生のこと嫌いらしい」などというとんでもないメッセージを伝える可能性があるのだ。

 かつて聞き捨てならない情報を、また聞きで得たとき、私は当の本人に直接たずねた事が何度もある。すべて例外なく上記のような図式で情報が歪んだ結果であった。だから私は、人物評価に関わる情報については、また聞きを無批判に信じることは絶対にすまいと思っている。

 

 

言い訳をしない人でありたい

2002年9月16日 

 言い訳をしたくなる時がある。自分の過ちではない事について責められた時は、特にそうだ。そんな場合でも、私は言い訳をしない人でありたい。

 人に迷惑をかけられた時、相手によって腹の立ち方が違うことがある。相手が他人の過ちに厳しい人の場合、こちらもつい強くクレームを付けたくなる。しかし大らかで明るく優しい人の失敗には、寛容になりがちだ。誰かにクレームを付ける時、それは失敗という事象より、相手の存在そのものに対する反応である事が多いと思う。

 私は以前、完全な誤解によるクレームを付けられ、非常に激しく非難された時、どう対処すべきか考える中で、そのクレームが私の在り方自体に付けられているのだと思い至った。誤解なのだから言い訳はいくらでもできる。けれど相手が腹を立てているのは、私が何をしたからという理由ではなく、私自身に引っかかるものを感じているからなのだと思った。私は言い訳したい気持ちを我慢して、全面的に謝罪した。そして相手を怒らせたであろう自分の在り方(確かに直すべき欠点だった)を変えるよう努力した。その後も相手との関係は続いたが、一切クレームは付けられなくなった。以前だったら絶対に文句を言われたであろう、正真正銘の私のミスに対してさえ、むしろ理解を示され、励ましてくれるようにすらなった。言い訳をしなかった事の驚くべき効果だと思う。

 ある時、友人が電話をかけてきた。「遠山さんがAさんを批判している、ってBさんがいいふらしているけど本当?」もちろんそんな事はない。私はどうしようかと思ったが、あえて何もしないことにした。いちいち言い訳をしなくても「あの人がそんな事をするはずがない」と判断してもらえれば、誤解は立ち消えとなるはずだ。結局何もしなかったにも関わらず、今でもAさん、Bさんの両方と良いつきあいが続いている。それ以来、言い訳をしなくても誤解を解けるような人になることを目指している。

 言い訳をしたいという気持ちイコール、自分は「その事については」悪くないという思いだが、裏返せば、他には悪い所がたくさんあるから、せめて良い所だけは良いと判断してくれ! という執着だと思う。だから「自分は悪くない」と言い訳したくなる気持ちが強い時ほど、言い訳をしないで謝るべき時なのだと私は思う。

 

 

悪口を言わない人でありたい

2002年9月20日 

 知人の悪口だけではなく、音楽、テレビ番組、タレント、楽器、政党、野球チーム、食べ物など、あらゆるものについて、悪口を言わない人でありたい。「悪口を言う」とは「否定的な印象を与える言葉を、当事者以外の耳に入れること」としておく。ついでに「愛のない批判は悪口に過ぎない」とも私は思っている。

 「嫌い」という感情は、生きていく上で不可欠である。危険なものに対して、人は嫌悪感で自分を守っている。例えば、大好きな食べ物でも、腐ってしまったら身体に悪い。腐った臭いが嫌いだから、好物でも食べずに捨てることができたりする。だから嫌いという感情自体を消し去ろうとは思わないし、できない。それに良い物を追求すればするほど、悪い物にも敏感になり、好きと嫌いが激しくなるものだ。私は特に好き嫌いが激しいと思う。そうでなければ音楽家ではいられない。いま流行している音楽の中にも耐え難く嫌いな曲があり、テレビで流れたら直ちに消し、外で流れたら耳を覆い、CMで使われたらその製品、そのメーカーの物は決して買わないほどだ。そういう嫌いな物について、どういうわけか人にも言いたくなる衝動がある。それを抑えるのは私にとってたいへんに難しく、意識していても漏れてしまう事が多い。それでも意識しない場合と比べれば百分の一くらいに減っているとは思う。

 私の嫌いな曲のことを、逆に大好きな人も多いだろう。その曲に出会うことで、前向きな力を受ける人もいると思う。それなのに私の余計な一言で悪い印象が植えられ、生涯の宝となるべき曲と出会い損なう人がでるかもしれない。他人の心の財産を奪う重罪だ。小学生の時、私がある本を嫌いだと言ったのを聞いて、その後その本を読めなくなったという人がいた。たとえ読めても、私が嫌いな本というイメージは何らかの影を落とし続けることだろう。そのような被害にあった人は数知れないはずだ。本当に申し訳ない。

 さて、物に対する悪口でさえその悪影響は大きいのだから、人に対する悪口といったら計り知れない害を及ぼすと思う。Aさんに向かって「Bさん、この頃つきあい悪いよね」という程度のことなら悪気なく口にしてしまうだろう。そのような軽く否定的な言葉でも、Aさんの心にBさんへの悪い印象をインプットしてしまう。そして蓄積し、増幅していく。それはBさんにとってだけでなく、Aさんにとってもマイナスとなる。AさんはこれからBさんとどんどん良い関係を築いていったかもしれないのに、その土台にヒビが入れられてしまうのだから。そう、悪口は、言われる対象もさることながら、聞かされる人に対して、とりかえしのつかないダメージを与えるのだ。

 というわけで、自分の心の中で「嫌いだ!」と叫ぶのは仕方ない。けれどそれを人の耳に入れないようにと、私は結構、必死で努力しているつもりなのだが、これは本当に難しい。

 

 

尊敬する人

2002年12月12日 

 中学を受験した時、面接の対策として「尊敬する人」を予め考えておくと良いと言われた。そして例として「両親です」という答えが好評だったと聞いた。当時はそれがとてもわざとらしく聞こえたものだが、今の私は素直に、そう答えられそうだ。なぜなら私は親に対してたいへん感謝しており、「親に感謝する子」を育てた親は、尊敬に値すると思うからだ。少し回りくどいかな。

 若い頃は生きているのがつらく、生まれたことを後悔することもあった。けれど今は生きることが喜びなので、生み育ててくれた親に感謝せずにはいられない。もちろん親には目につく欠点もあるし、人格者というわけでもないけれど、その生き方を間近に見てきた子どもが感謝を惜しまないというのは、ありそうであまり無いのではないかと思う。私を、親に感謝する子に育てた親は、なかなか偉いと思えるのだ。

 自分が親となった今、子どもには「生まれてきて良かった」と心底思えるように生きてほしい。そのお膳立てをするのが、親の唯一の務めではないかと思う。

 

 

東京ディズニーランド「年パス」

2002年12月16日 

 きょうは妻と子とディズニーランドに行ってきた。妻が大好きな場所だ。婚約時代に「年間パスポート(通称 年パス)」というのを買って、何度も何度も行った。年パスを持っていると1年間出入り自由なのだ。名前と写真の入ったプラスチックのカードで、4万円くらいした。

 年パスでは、変わった楽しみ方ができる。普通なら気合いを入れて1日中遊ぶところだが、いつでも行けるのだから、ふらりと行ってピンポイントで楽しんだりできる。ちょっと寄ってお茶を飲むだけ、という事もできるのだ。ある時は施設内のすべての「ショップ」をめぐるのに挑戦した。あまりに多く、疲れて1〜2軒残してしまったと思うが、意外な店がたくさんあって楽しかった。ある時はストリート・パフォーマンスに絞って楽しんだ。路上で突然演奏を始めるグループがあるのだが、それをたくさん見ようというのだ。案内所に行くとスケジュールを教えてもらえるので、どのように移動すればお目当てのグループを見られるか、あらかじめ計画を立てることができる。よく考えて計画を立てないと見尽くせないほど多くのグループが活動していて楽しい。またある時はすべてのトイレに行ってみたくなり、挑戦しかけたが、何だか妻に気の毒になって途中でやめた。

 

 

円周率

2002年12月16日 

 小学校で円周率を教わった時、非常に興味をそそられたのを覚えている。「円周」などという測りにくそうなものが、直径を測るだけで判るなんて、だまされているようだった。それに何で「3.14」という半端な数をかけるのかも不思議だった。図書館で調べてみると「3.14159」まで載っている本があった。そしてどこまでも続くと書いてあった。私はできる限り知りたいと思ったが、どこで調べられるか判らなかった。そこで父親に聞いてみた。すると父親は、何と円周率を計算で求める方法を教えてくれたのだった。そんな事を小学生に教えられる父親って、どれくらいいるのだろうか。とにかく私はせっせと計算し、小数点以下10桁くらいまでは出した。けれど精度を保って多くの桁を計算するのは大変に面倒なのだ。すると父親は分厚い本を買ってきてくれた。1冊まるごと円周率について書いてあり、そこには1万桁の円周率が書いてあった! 頑張って覚えた50桁は今でも言える。

 カール・セーガン氏の「コンタクト」という小説の中に、円周率の中に幾何学的なパターンが埋め込まれていたというシーンがある。それが宇宙の創造者のサインだという設定だ。けれど私には不自然に思われた。円周率に何らかのパターンを見いだそうという試みは魅力的で、数十万桁が計算され公開されている現在も、数字の出る頻度などが調べられている。けれど私は、円周率が完全にランダムな数(無理数)だという事の方が、創造者のサインとして相応しいように思う。人間は努力すれば、円周率をどこまででも計算できる。けれどどこまで計算しても「次のひとけた」を予想することは出来ない。99万9999桁までの値を手にしても、そこから100万桁目を予測して当てることはできないのだ。常に一寸先は闇、人生のようだ。経験すれば必ず結果が出る。けれど経験するまで決して結果は分からない。そんな真理を「丸」ひとつで表せるのは、それこそ創造者しかいないと思う。

 

 

サンタのプレゼント

2003年1月9日 

 クリスマスに、サンタからと称して子供にプレゼントを贈った親は、きっとたくさんいるだろう。けれど私はその習慣を疑問に思う。プレゼントは人間関係あってのものだ。知り合いならその絆を堅くするため、知らない人ならこれからの関係を建て上げていくきっかけとして、プレゼントは贈られると思う。

 2002年のクリスマス、私と妻とで息子にプレゼントしたのは電車のおもちゃだった。サンタからではなく、パパとママからのプレゼントだ。子供がそれを手に取るたび、それを私たちの愛のひとつの表れとして意識してほしい。プレゼントがサンタからか、親からかの違いで、子供の中に広がる気持ちはまったく異なると思う。私は子供の心に、親から愛されているという気持ちを植え付けてあげたい。だからサンタからではなく「パパとママからのプレゼントだよ」と贈ったのだ。

 子供にとってサンタは「欲しい物」をくれる人である。しかし親は、必ずしも欲しい物をくれない。子供はしばしば自分のためにならない物を欲しがるものだ。極端な事を言えば、幼児が母親の使う包丁を面白がって欲しがることもある。欲しい物を手に入れる事が、不幸につながる場合も多々あるのだ。親は子供を愛するからこそ、欲しがる子供に「ダメ」と言う。子供にとっては欲しい物をくれるサンタの方が有り難いかもしれないが、本当の愛は「ダメ」と言う親こそが与えられると思う。その親が考え抜いて贈るプレゼントを、親の思いと共に受け取って欲しい。

 今年も多くの人が初詣をしたと聞く。あわよくば自分の願いをかなえてもらおうと詣でた人も多いだろう。けれど本当に神様が人のためを思うなら、浅はかな願いの多くに「ダメ」と答えるだろう。キリストが十字架にかけられる直前の祈りはこのようなものだった。「父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」(マルコの福音書第14章36節)このような真の信頼関係を学ぶささやかな一歩とするためにも、私はプレゼントを「親から」贈ることにこだわりたいと思う。

 

 

バレンタイン・デー

2003年2月1日 

 バレンタイン・デーは、聖バレンチノに因んだイベントだ。チョコレートを贈る習慣は企業の戦略によるものらしいが、プレゼントの機会としては良いのではないかと私は思う。ただ気の毒なのは、女性から男性へと決まっていることだ。そしてホワイト・デーなるもので、男性のお返しが待たれることになる。これは逆の方が自然だ。逆でないために、実るはずの思いが実らないことも多いと思う。本当に女性には気の毒だ。

 男は狩人だと思う。何でも追いかけて捕まえるのが楽しい。苦労して手に入れるのが嬉しい。お菓子のおまけに凝り出すと何万円も注ぎ込むし、難しいゲームをクリアするために何十時間でもかける。女性に関しても、高嶺の花にあこがれて、振り向いてもらおうと苦労すること自体が楽しいのだ。だからバレンタイン・デーは、男性が女性に贈り物をする習慣にすべきだった。男はドキドキしながらホワイト・デーを待ち、良い返事が来れば、苦労して得た相手を大切にするだろう。ところが女性の方から迫ってこられると、男は冷めてしまう。チョコレートを貰えば嬉しいには違いないが、それは自尊心が満たされるだけだ。だから貰ったチョコの「数」で他人と張り合ったりする。

 本気で思いを実らせようと思うなら、女性はバレンタイン・デーに踊らされてはならない。男に追いかけさせるよう工夫した方がずっといい結果を得られるだろう。と私は思うけれどいかがでしょう?

 

 

手品

2003年2月22日 

 

 以前、マジック・バーに行った時のこと。バーテンダーが全員手品師で、時々手品を見せてくれた。そこで驚きの手品を見せられた。

 トランプ手品だ。バーテンダーは1組のトランプを扇のように広げて片手から片手に送りながら「好きなカードを目で選んで下さい」という。私は流れていくカードの中の1枚を心の中で選んだ。一切カードにふれていない。一緒にいた友人に教えてもいない。心の中だけでカードを選んだ。バーテンダーはカードを送り終わると「1枚選びましたね」と確認した。そしてもったいぶってカウンターを拭いたりしている。私とバーテンダーの間にはカウンターがあるのだ。さてバーテンダーは言った。「上着のポケットを見て下さい」私は着ていたジャケットのポケットを見た。カードが1枚入っていた。それは私が心で選んだカードだった!

 考えられるタネはひとつしかない。バーテンダーは手品を始める前に、あらかじめ私のポケットにカードを仕込み、手品の中でそのカードを私に選ばせたのだ。カードを送っていく様子を思い出すと、どうも1枚、目がいくような送られ方をしていたような気がする。つい先日、テレビ番組でこのテクニックを紹介していた。さりげなくカードを送っているように見せかけながら、1枚、心にひっかかるようにするのだ。タネが分かっても真似できない、熟練の技に脱帽。

 さて同じマジック・バーでのこと。ある女性客が目を丸くしながら手品を見ていたのだが、突然バーテンダーに飛びかかった。「カードに仕掛けがあるでしょ! 見せてよ!」と言いながら、何とバーテンダーの持っていたカードをつかんで引っ張り、破いてしまった。バーテンダーは何とか渡さずに済ませ、引っ込んでいった。女性客に悪気は無く、タネらしきものに気づいたのが嬉しくて反射的に動いてしまったようだった。酔いも手伝って。

 手品を見ると、やたらとタネを知りたがる人がいる。というか大部分の人がそうかもしれない。テレビでもタネをバラす番組が多くなってきたように思う。タネを知りたがるのは、人間の自然な好奇心だと思うし、私も見ながら「どうなっているんだろう」と考えはする。けれど、タネを教えてもらった時の「あーそうだったのか」という納得は、そこで終わってしまう刹那的な満足だ。そこからは何も生まれない。むしろタネがわからなくて思いめぐらせている方が、可能性は広がっていくと思う。

 あるプログラマーが他社に見学に行き、驚くべき働きをするコンピューターを見せられた。彼は衝撃を受けて帰り、懸命になって同じように働くプログラムを組み上げた。そのプログラムによって、自在なグラフィックを扱うことができるMacというコンピューターが誕生した。ところが実は、驚くべき働きをしていた他社のコンピューターというのは、ソフトウェアではなくハードウェアでその働きを実現していたのだ。それだったらそれほど大した事ではない。見学したプログラマーがタネを教えてもらえなかったために好奇心が創造力を増幅して、前代未聞の画期的なプログラムを生み出したのだ。

 何事でも不思議さに驚いたら、まず自分で工夫してみるべきだと思う。そうしてこそオリジナルを超えるものが生まれてくると思う。

 

 

ウソ

2003年2月25日 

 「ウソをついてはいけない」というのは、正しい倫理であるように見える。しかし聖書は少し違うニュアンスで戒めている。「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」(出エジプト記20章16節)有名な「十戒」のひとつだ。

 第二次世界大戦中、ユダヤ人をかくまったクリスチャンがいた。ゲシュタポが「この家にユダヤ人はいないか」と何度たずねてきても「いない」とウソをついてかくまい通した。ところがあるクリスチャンは、ウソをつくことが苦痛になって、つい「います」と言ってしまった。(捕らえられたユダヤ人は不思議なことにすぐ釈放されたそうだが)。ウソが人を救い、正直が人を傷つけることもある。聖書にもウソをついて人をかくまったことが良しとされている箇所がある(ヨシュア記2章5節)。ウソをつくとは、わざと間違った情報を与えることだが、動機が問われるべき時もあると思う。

 人は常にウソをついているのではないだろうか。化粧も、愛想笑いも、良い点ばかり強調するプレゼンテーションも、言うべき事を言わないのも、ウソの一種だ。けれど「ウソ=罪」ではない。そのウソによって誰かが不当な被害をうける場合、それが十戒で禁じられている「偽りの証言」であり、避けるべき罪なのだと思う。それならば、ウソではなく本当の事を言ったとしても、誰かが不当な被害をうけるなら、それは罪だと思う。

 私の母は「もし私がガンだとわかっても、私には告知しないで、だまし通すように」と言っている。だからそうなったら、私は徹底的なウソつきになるだろう。

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